オーストリッチ歴史

数千年前から富の象徴

何世紀も前、ダチョウの羽根は多大なる富を意味していました。数千年前のバビロン、エジプト、アッシリア文明の頃から、ダチョウは人類に知られています。エジプト人、ローマ人の高貴な女性は、儀式の際にオーストリッチに乗りました。
ツタンカーメン王の墓には、弓矢によって狩猟したダチョウはファラオに捧げなければならないと記載されています。

左右対称の形から、ダチョウの羽根は古代エジプトでは正義と真実の象徴とされていました。
ヨーロッパでは、聖戦から帰還する騎士は形の良い羽根を一緒に持っていました。
ヴィクトリア朝時代になるとダチョウの羽根はファッションの定番として、特に帽子に使われる需要が増加し、これがダチョウの飼育につながっていきました。
特にエリザベス1世、フランスのマリー・アントワネットは異国的な色合いをファッションに出すために、ダチョウの羽根を使いそれを定番化させたので、ファッションとしては19世紀全般から20世紀はじめまでその人気が続きました。

ostrich ostrich

南アフリカでのダチョウの商業飼育

南アフリカでのダチョウの商業飼育は、1860年頃から始まりました。1869年にダチョウの卵の孵化装置が発明されたのをきっかけに、1870年からダチョウの商業飼育は多大な利益を生みだす産業に発展しました。1900年から1914年にはダチョウ産業は頂点に達し、農家と商人の両方に前代未聞の利益をもたらしました。
特にオウツフルンという町の発展はすさまじい速さで、ダチョウ御殿と呼ばれる豪華な家々が次々と建てられました。
しかし1914年に南アフリカ国内の100万羽近いダチョウを抱えた飼育産業は崩壊し、毎日のように破産者が続出しました。フェザー市場が落ち込んだ原因は、第一次世界大戦中の世界的な社会経済の停滞、屋根が付いた自動車の普及にともなう女性のファッション、特に帽子の流行の変化、羽の生産過剰、無秩序な販売が挙げられます。

ostrich ostrich

停滞から復興へ

停滞は第二時世界大戦後まで続きますが、1945年にクライン・カルー協同組合が結成され、再び産業を軌道に乗せました。定期的な羽根のオークションが開催されるようになるとともに、1963年には世界でも特に優れた屠殺・解体工場が作られました。
クライン・カルーの屠殺・解体施設は、輸入国の厳しい衛生管理規定に見合うようにデザインされており、ダチョウ専用の2つの近代的な屠殺・解体施設を持っています。
屠殺・解体は輸出国の衛生規定に詳しい、南アフリカ獣医師サービス理事会(SADVS)からの検査官チームの指導のもとで行われます。

ostrich ostrich

ダチョウの町「オウツフルン」

オーティンクワ山脈とスワートバーグ山脈の間にある、美しい街オウツフルン。
ダチョウ産業は、ここで発達しました。
この地域はリトル・カルーと呼ばれ、標高1,000M級の山から水が注がれる肥沃な平野と、年間200mmと比較的降水量が少ないのが特色です。

現在、世界に生息するダチョウの大半がオウツフルンにいます。
飼育は、人間が動物を扱うための厳しい規範に沿って、高度の科学・技術に基づき行われています。
品質だけでなく効率性を改善するための調査・研究を続けています。

ostrich ostrich